「神奈川」をあえて歩いてみた

バハティ一級建築士事務所

代表 佐藤 誠司


先日仕事で現地調査をしに行った時のこと、場所は横浜駅より徒歩10分ほど鶴屋町の裏の山の上といったほうがよいか、反対側に降りて行くともう反町といったようなところ。横浜駅の西口(北コンコース西口といったほうがよいか)よりややいかがわしいところを抜けて京急の線路沿いに歩いて、ちょうど青木橋の正面にあるお寺の脇に目もくらむような上り坂があるが、これを登って現場へ行った。

仕事を終え、今度は来た道とは反対側のみちを降りていく。こちらも急な坂を一気に下ると、一見なんということはない山の中腹を走る道路にあたる。

ちょうど道同士が交差するところに鬱蒼と茂る木立があり何やら石碑がある。

読んでみるとこのあたりは旧東海道神奈川宿とがあったとこなのだという。ここがそうなのかと思いつつ、みちの先をみてみるとみちはどちらの方向もアップダウンをしながら続いていく。ふと一軒の料亭らしきものが目に留まる。「田中屋」という。建物こそ料亭風木造モルタル(上から塗ったか)の一見なんということのないものだが、門先から中をみてみるとそれなりの雰囲気がある。門の横に役所がつくったと思しき解説板があり、広重の東海道五十三次の神奈川宿の浮世絵が当時の風景をあらわしていた。この辺りのアップダウンは往時の面影がまだ残っている。その脇を急なコンクリートの階段が降りていく。先を見るとどうやら鶴屋町の通りが見える。浮世絵から見るに田中屋の背後は絶壁で海がひろがっているので、さしずめ昔はこの階段の下には料亭の背後の岩壁の下に船がつないであったなどという何とも風流なところだったのかもしれない。

現在
浮世絵


幕末島津久光の行列が生麦で外国人を斬り殺して、慌てた幕府やイギリス公使館などに止められては面倒だからとさっさと通り過ぎたのものも神奈川宿だし、田中屋で働いていたのは坂本龍馬の妻お龍だったのである。

現在の横浜のシンボルともいうべき横浜(関内)は開港前ただの一漁村だったというが、広重の浮世絵を見るにつけそう思う。かつてはここがこの辺りの中心だったのである。

開港後の横浜を「横濱」としてもてはやすのも良いが、このようなところにも目を向けてこの辺りを見てみるべきではないだろうかとそぞろ歩いて思った。

横浜・神奈川|暮らしをデザインする建築家|AA STUDIO

神奈川県、横浜市の建築家を中心とした建築家グループ。住宅や各種施設設計の経験豊かな建築家メンバー自らで運営し建築家の紹介、建築家コンペのコーディネートなどの各種サービスを行っています。

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